アルファGPCと大豆の歴史

大豆の歴史

大豆は古来より私達にとって、最も重要な食物の一つです。
植物のなかでは唯一、畑の肉と言われるほどの多量のタンパク質を含み、
重要なタンパク源として健康で豊かな生活を営む上で、欠かせない食物です。

日本では、その歴史は弥生時代に遡り、古事記にも記述があります。
平安時代に入ると、大豆は醤油などに加工され、既にこの頃から大豆の<加工>は始まっていたようです。
その後、鎌倉時代には栽培も盛んになり、戦いに明け暮れる武士や農民たちの大切な栄養源、保存食となってゆきました。
大豆の加工技術は歴史とともに日本各地に伝えられ、醤油、味噌と言った加工調味料や
豆腐などの加工食品は私達の食生活の軸になっていったのです。

欧米での歴史

一方で、欧米では中国や日本から17世紀になって漸く大豆は持ち込まれました。
アメリカでは18世紀中頃から大豆の栽培が始まっていましたが、ヨーロッパから伝わった醤油が一部、上流階級に広まったのみで、大豆を食用にする文化はなく主に餌料として利用されていました。
その後、第二次世界大戦中に食用油の需要増から大豆油としての利用が開始されました。
現代になり、漸く大豆のタンパク質に注目が及び、大豆粉を使った加工食品、大豆油から精製されたレシチンの利用などが活発になりました。

ヨーロッパでは17世紀に大豆そのものに先行して加工食品である醤油が正に日本より伝わりました。18世紀には醤油は裕福な人々の間ではポピュラーな調味料となったされており、しかし醤油が大豆から加工されたものであるとは一般には認識されていなかったようです。
植物としての大豆そのものは18世紀に伝わったとされ、18世紀末までには、ヨーロッパ各地で栽培されるようになったとされています。
18世紀中頃から18世紀の終わりかけてヨーロッパの研究者の間では、世界に先駆けて、大豆および大豆の栽培について、特に栄養学、微生物学、化学の分野で研究が盛んになります。この頃の研究のほとんどは化学的、栄養学的な大豆の成分構成に関するものでした。
特にタンパク質、脂質、デンプン質についての研究が活発でした。
ヨーローッパ初の大豆食品は醤油でしたが、ヨーロッパで初めて広まった大豆食品の利用方法はタンパク源としての糖尿病の食事療法でした。特にフランスではパンなどに大豆粉を入れるなど大豆食品での食事療法としての使い方が広まり、大豆は健康維持のための成分とのイメージがつくようになっていきました。
19世紀末までに納豆、発酵豆乳を除く東アジアの伝統的な大豆食品のほとんどがヨーロッパで紹介され、その中で、大豆レシチンや大豆コーヒーなどはヨーロッパで開発されました。

20世紀に入ると、ヨーロッパでは大豆は兵士たちの重要な食料源、保存食としての認識が強くなります。
そのことを特に印象づけたのは1904年の日露戦争でした。
双方の兵士にとって満州の大地で育っていた大豆が重要な食料源だったのですが、基本的なタンパク源としての乾燥豆腐やその他の保存食を有していた日本兵のスタミナにロシア兵が圧倒されたという報告があり、ロシアが実際に敗北した事がその理由です。
この出来事により、ヨーロッパ各国は東アジアの大豆を軍事用に買い入れ、特にドイツでは第一次、第二次大戦時に兵糧として大豆を使用しました。
こうした一方でヨーロッパでは綿の実などの伝統的な油料種子が不足し、高騰します。満州を手に入れた日本はその土地に残った大豆を油料種子の代替として試験的にイングランドへ輸出しました。イングランドでは大豆から油料の精製に成功し、油料種子としての大豆の貿易を活発化しました。このことがきっかけとなり、世界中で大豆の貿易が盛んになりました。各国は植民地で大豆の栽培を始めるなど、貿易の足がかりにしようとしましたが、依然として風土の問題から東アジアからの輸入が多くを締めていました。これは第二次大戦開始まで続きました。戦後の混乱の中、大豆の流通量は増加しましたが、主な輸入先は東アジアからアメリカへ変わっていました。アメリカからの大豆の輸入はその後30年、拡大の一途を辿り、今日に至るまでアメリカは大豆油の最大輸出国になったのでした。

大豆レシチンの歴史

大豆加工の歴史から見られるように大豆レシチンが初めて歴史に登場したのは、19世紀末のヨーロッパでした。スイス、ドイツで大豆の中に少量のレシチンが発見された後、日本人により初めて、英語の刊行物で言及されました。
20世紀に入ると、日露戦争後、ヨーロッパでは大豆油精錬産業が盛んになります。しかし、その際に排出する大量の沈殿物が悪臭と発酵により廃棄時に大きな問題となりました。ドイツの精製工場は沈殿物を”大豆レシチン”と呼び、これを真空状態で乾燥させようと試みました。この方法は数種類の溶解剤、蒸発乾燥の工程などから大変に高価でしたが、20世紀初頭のドイツでは新しい溶媒抽出技術により、数種類の溶解剤を使用しなくても、大豆レシチンを分離精製できるようになりました。

こうした初期の試みは大豆油からの大豆レシチンの分離精製よりも大豆粉からの分離精製に集中していました。
大豆レシチンの精製方法の初めての実用的な試みは1923年にドイツで行われました。これは大豆油から精製しようというものです。初期の実験ではなかなか成功せず、この時代に行われた様々な他の研究に成果により、10年後の1933年に漸く成功します。
精製直後の大きな課題はレシチンの利用方法でした。20世紀初頭から食品サプリメントとしてレシチンは健康上の利点があると考えられてきました。それはそれまでに体内での働きに関する観察が続けれ、比較的多量のレシチンが人間の体内に発見されていたからです。
1920年台当初からレシチンは"健康維持"の用途で利用されうると考えられていました。
こうした研究のほとんどはドイツで行われていましたが、特許取得のための秘密保持の観点から、それに対する刊行物はごくわずかでした。ドイツの研究者により1930年台末までに1000もの利用方法が発見され、世界各国で特許が取られていました。
1930年まではレシチンといえば卵黄レシチンを指しました。卵黄レシチンが広く、マヨネーズ、ドレッシングやマーガリンなどに使用さていた一方で、単に研究対象や高価な医薬品以上のものではありませんでした。それは、高価なことに加え、卵黄や動物性のレシチンは日持ちせず、匂いや味が良くないことが理由でした。大豆レシチンは卵黄レシチンの全ての用途に置き換え可能ということでは無いですが、1930年代以降は概ね置き換え可能だと考えられるようになっていました。

大豆レシチンのヨーロッパでの主な市場はマーガリンでした。1925年にドイツで実験的に使用されました。卵黄レシチンのマーガリンの使用は1884年に特許化されていましたが、上述の卵黄レシチンの不便な面と、マーガリン中のほんの少しの大豆レシチンは乳化の面で非常に都合がよいことから、大豆レシチンが非常に多く使用されるようになります。また1930年までに特にイギリスでチョコレートやココアにも広く使用されるようになりました。
1930年代には、食品以外にも印刷や塗料、織物などの工業製品、スキンクリーム、石鹸などの化粧品、更にはゴムや革製品にも使用されるようになりました。

その後、戦中戦後にかけて様々な健康維持目的の用途の研究が進み、大豆油からの高品質な大豆レシチンの分離精製の技術の発展に伴い、安価な大豆レシチンの供給が可能になりました。
1970年台には健康食品としての大豆レシチンの認識が広まり、ヨーロッパ各国で大豆レシチンを扱う企業が出現し、研究会なども多く開かれるようになり、今日に至るのです。

新しい健康食品原料アルファGPC

アルファGPCは、レシチンを精製した成分で、グリセロホスホコリンと言われる栄養成分です。
大豆レシチンの分離方法が確立しつつある1930年代ごろから、これの不純物を取り除いたり、更に他の成分を精製する方法の研究がヨーロッパで始まりました。
アルファGPC(L-α-グリセロホスホコリン)の分離精製方法も戦後から研究され続け、近年では利用方法においての様々な研究が盛んになっています。
研究の成果から、高品質で高純度なアルファGPCの精製が可能になり、その高い吸収性などの特質から、最も効率のよいコリン補給剤として、サプリメントとしての利用が始まったのです。